昭和47年10月04日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心せよ信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃという事は、わが心が神に向かうという事は、求道心と申しましょうか。道を求めるという事。そのやむにやまれぬ心を、私は神に向かう心だと思うですね。それは合楽に今日はお参りしょうと思う。足をこちらに向ける。一歩でも合楽の方へ足を向けると、神様はそれこそ一歩でも無駄にはさせんとおっしゃる位ですから。成程今日は合楽の金光様にお参りをしようと思うただけでも、やはり心は神に向うたのであります。
けれども今日私が、皆さんに聞いて頂きたいところは、神徳の中におっても氏子に信なければおかげはなしと仰る。この信なければという信です。その信を得る為の信心と申しましょうか。ですから只合楽にお参りをしようと思うただけでも、心は神様に向こうた訳ですから、それもやはり信心ですけれども。それではなくて、もっともっと深い意味合いに於ての信心ですね。信心とはわが心が神に向かうと言うこと、所謂求道心言うならば、真の信心が分かりたい、本当の信心が分かりたいとこういう心なんです。
しかもその心がです。やむにやまれんと言う所に、神に向こうたという、本当の姿勢がある訳です。ですから言うなら信心の素人と玄人と、今日は玄人の部類に属する方の、神に向かうという意味の事を聞いて頂きたいと思う。まあだ素人の部類と言うなら、ちょっと今日は、お伺い事があるから、合楽にお参りをしようと。この事をお願いせんならんから、今朝朝の御祈念にいっちょ参ろうかという、それも神に向かうのです。
だから神様は、そういう向かい方に対してでも、一歩でも無駄にはさせんと仰るのですから、どこにかそれが、おかげと言うか、潤いという事になってくる事だけは間違いない。けれども私は今日は、信なければとおっしゃる。おかげまたは最後のところに、信心なければ世界は闇なりといったような、大変なお言葉をもって、この御理解を締めておられますよね。世界の光にでもなろうかという程しのものなのですから、私がおかげを頂くといったようなものではない事が分かりますですね。
現在の世の中を、社会情勢から言うて、まぁ闇のような感じが致しますですね。その闇の世にです。例えそれは、小さい光であっても、その信心の光がです、輝き、しかもそれが、たくさん灯らせて頂くという事によって、社会に、大きな光ともなるというおかげを頂く。それをここでは、和賀心時代を創るといったような、そういう一つのスローガンの元に、合楽の信心は進められておる訳であります。
ですから、それを進めていくという事にはです。信心せよ、信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃとおっしゃるのですから。そういう意味に於て、玄人の信心とでも申しましょうか。社会に光をもたらす程しの信心と言うてもいいでしょう。そういう信心とは、本当に光を頂くような信心。本当に徳を力を受けるような信心。それは真の信心という事でしょうね。
真の信心が頂きたい、真の信心が分かりたいと切に願う。しかもその願う心が、やむにやまれんという、その心を神に向かうという事になると思う。追求してやまない道を求めてやまない。そういう心が、神に向うた姿であります。神徳の中におってもとおっしゃる。神徳の中にあるという事をです。感じさせてもらうという信心。私はそれを今日は恐れ入った生活。恐れ入ったという信心という風に聞いて頂きたいと思いますね。神様の御働きには恐れ入ってしまう。その恐れ入ってしまうという信心。
恐れ入ってしまうという生活生き方。いわゆる恐れ入った生活なんですね。神と共にある私共神様のおかげの中に、生かされて生きておる私達。これを信心のお話を聞くとそうだという事がお互い分かります。けれどもそれがやむにやまれん心で、そういう大きな働きに対してです。神恩報謝の心が湧いてくるという程しの所まで行かなければいけない。恐れ入ったと言うほどしの神様を頂かなければ、それは出来ない事だと思います。「吉野山 踏み迷うても 花の中」どなたの句でしたでしょうか。
いわゆる大雑把にです、信心が分からせて頂いたら、やはりこういう境地が開けてくるという事も尊いですね。吉野山という所は、桜千本と言われる程しに、桜の名所で知られた所なんです。それこそ、入ったら出道が分からんという程しの、花の中にです。それは踏み迷うておっても、やはり花の中だと言うのです。ここは地獄だと思うてもです。その地獄の中とても、阿弥陀如来様の御懐の中だというような意味に、親鸞上人は頂いておられますね、その辺のところを。
「落ちるこの身は十八願の 中と思えば危なげはなし」と言った様な事になってくるのです。たとえそれは、落ちていく先が地獄であってもです。そこも阿弥陀如来様の御懐の中だと思うたら、落ちるという心配はない。これ以上落ちる所はない。そことてもやはり、お道流に言うならば、天地金乃神様の御懐の中だと、こういう訳なんです。けれども、やっぱり地獄は嫌ですね。
同じ天地の親神様の御懐の中に、地獄極楽があるなら、やはり極楽を求めたいです。信心が野放図になって参りますとです。自由になって参りますとです。言わば、安易な信心、楽な信心になって参りますと、そういうところに留まって、先を求めようと致しません。どこにおったって、天地の親神様の御懐の中だから、ここから拝んだっちゃ同じこつ、という訳なんです。迷うて迷うて、迷うておる。その迷うておっても、やはり花の中だと言うよりも、そういう迷いから、早く脱却したいですね。
言わば信一筋に生きたいですね。信なければおかげはなしと仰せられるのですから。そこでです。私は求められるのは、さらな信心だと思います。三代金光様が「日に日にさらでございます」と仰せられた。どうしたならば、どう言う様な信心にならせて頂いたら、そうした日に日にさらな心が生まれてくるだろうか。言うなれば白紙の状態です、日々が。昔は紙が貴重であったり、少なかったりしたからでしょうね。手習いをするでも反故になるように真っ黒になる迄。
真っ黒になったその上にこうやって書いた。習字の練習をした訳ですね。ところが最近の先生は、絶対そういう事では手は上がらん。たびたびに新しい紙に書かなければ。本気に気を入れない訳です。真っ黒う書いた上にはなんぼでも書く。だから筆運びなんかの稽古にはなりましょうけれども、本当の習字の事にはならないという訳ですね。私共の真っ暗い心と言うか言うならば、汚い心とでも言うでしょうか。
改まろうともしない心と言うてもいいでしょう。改まろうともしない磨こうともしない心でです。それは十年、二十年、教会に通うて参りましてもです。それでは信心の上達は絶対ないです。詳しくはなるかもしれません、お話を頂きますから。やはり白紙です。白紙の上にです、新たな心で筆を取らせて頂く。そこにハッキリと自分の書いておる字が、そこに見えてくる。ハッキリと見えてくるからこそ、恐れ入ったという心も生まれてくるのです。日に日にさらな信心とは、日に日に白紙にしていく。
どういう問題がありましても、それは事情はありましょう。けれども何にもなかったという時点から、その次のおかげを願わせて頂こうという事なんです。あんたがああ言うたから、あんたがこうしたからというような事もあろうけれども。そういう事は一遍白紙にして、水に流してこれからより良い生き方、より良い幸せを頂く事の為にはです。過去の一切を水にしなければいけんのです。過去の事にとらわれたり、それに思い惑うてはならんのです。そういう心だと思うですね、さらな心というのは。
いわゆる昨日を忘れというのがそれです。そして今日を喜ばせて頂くという。そこに明日を楽しませて頂けれる信心生活があると思うですね。昨日あの人に、ああ言われた事が頭の中に残っとる。もう眠られんごとあった、というようなものではなくてですね。昨日の御理解で言うならです。もうお父さん、明日食べる米がないですよと言われてもです。しかし今晩迄、それがお粥さんであっても、すすらせて頂いた。頂かせてもろうたという事を、御礼を申し上げていけという事なんです。
その御礼という事によって、白紙になれるのです。心からの御礼を申し上げるという事によってです。さぁ明日は明日、早う休もうぞと言うところにです。眠れないと言った様な事はありません。そういう心の状態におかげがある。信なければと仰る。信なければ出来る事じゃありません。そうして、明くる日です。もうそれこそ、どこからどうして集まって来ただろうかと思うように、例えば、お米ならお米が集まって来ると致しましょうか。その時に、初めて、恐れ入ってしまうという事になるのです。
成程神様に生かされて生きておるんだなという事になるのです。そういう神様の働きをです。実証していく生活、現わしていく生活。それには明日米がなかならば、そんならどっからか、借って来じゃこてというごたる生き方の中からは、生まれて来ないという事です。そこで信がなければ出来ないでしょう。まぁどうとかなろうたいと言う様な事であっては、夜が眠られないでしょう。心配で。でなかったら捨鉢という事になるです。そういうものではない。明日を楽しむという事。
明日は神様がどういう手でおかげを下さるじゃろうかと思うたらね。本当に心楽しゅうなるです。この問題をこういうこんがらがった問題を、神様がどういう手でこれをスキッと梳き流して下さるだろうかと思うたら楽しみです。そこに只人間技ではどうにも出来ない。人間の知恵ではどうにも出来ない事が、可能になってくるのです。今日の御理解は、玄人向きでしょうが、皆さん。けれどもですね、合楽でおかげを頂いておる皆さんの場合はですね。ここのところに、本気で取り組まなければ、嘘なんです。
信心せよ信心とはわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと仰る、信心が果して出来ておるであろうか。求道道を求める。今朝はどういう御理解を頂くだろうか、と思うただけでも心が弾む。しかもそれをです。やむにやまれん心で、それを頂く。それを今日私は、神に向かう心と、信心とはわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃという、信心とは、そういうやむにやまれん神様の御心とでも申しますか。
いわゆる真の信心が分かりたい。本当な信心が分かりたい、と私は願う心。それが神に向うた姿であると今日は聞いて頂いた訳です。神徳の中にあっても、氏子に信なければ、おかげはなし。その信それは私共が、本気で白紙になるという事。そこから日に日にさらな信心。習字の事で言うならば、新しい紙に、自分の書いておる一字一画が、ハッキリ分かる。自分の言うておる事、しておる事がハッキリ分かる。
第一神徳の中におってもと仰る、神徳の中にある実感です。私は白紙になるという事は、ある意味で、我情を捨てた姿であり、我欲を捨てた姿であると思うです。だから我身は神徳の中にある事が、ハッキリ分かってくるのです。そこに只今申します。恐れ入った生活。それを、昨日の御理解私の修行時代に、今晩迄は食べる米があったけれども、明日の朝は炊く米がないと、家内に訴えられた時の気持ちなんです。「それは困ったな」とは、ひとつも、言うても思うてもいないです。
今日まで今晩まで頂けた事が有難い事じゃないかという頂き方なんです。だからそこにあるものは、御礼だけしかない訳です。勿論そこからです、どこにお粗末御無礼があるやら分からんのでございますから、お詫びもさせても貰う、また明日の事も、祈り願わせて頂く事もありますけれども。やはり一番初めに出てくるのは御礼です。今日まで今晩まで頂けたという事が有難いのだと。そして明日は神様がどの手で、おかげ下さるだろうかと思うたら、心が弾む程しの有難さに、休ませて頂く事が出来るというのである。
そして神様がです。一遍なんかそういう時でした。あくる朝椛目の篠原さんがお参りになっておられますが、篠原さんの姉さんに当たります方が、草野におられました。その方が沢山なおにぎりを、明くる朝持って来て下さったですね。それこそ白い御飯を当時は銀飯と言いました。それが学校か何かに手伝いに行かれて、何か大変な集会があった時に、おにぎりを沢山作られたところが、人数が出揃わずに、沢山余ったと言う。だからお世話に行ってる方達が、みんな貰うて来ておられる訳です。
私の方が難儀困迫をしておるという事は、皆さんが誰でも知ってある訳です。ですから、これを食べて下さいとは言わずに、鶏になっとん、あげて下さいと言うて、沢山のおにぎりを頂いた。本当に、一家中の者が恐れ入りましたですね、神様の働きに。そういう事はいつもでした。一掬いの塩がないという時にです。あの時分は、塩も大変手に入れ難かったからですね。表を通っておる人が、石炭箱いっぱいの塩を、安い値段で私が朝の御祈念から帰って来たら、私の方の前を石炭箱を乗せてから。
ずうっと通り抜けなさったです。勿論何じゃら分からない。そしたら又グリーッと回って来なさるです。そして私が朝参りから帰って、戸を開けよる私に向かってから、塩は要りなさらんじゃろうかと言うことじゃった。ゆうべ家内が一掬いの塩もないですよ、と言うておるのである。本当に素晴らしい事だなと思うた。そしたらこの石炭箱に、どれだけの塩が入っとりますから幾らでと。大変な安い値段でした。それで計ってみましたら、一升ばっかり多かった。
というようにですね、本当にこちらが、ままよという心にならせて頂いて、安らぎを頂き。明日は神様がどの手でおかげを下さるだろうかと言う様な、弾んだ心でおれるという信心をです。いつの間に、そういう信心が身に付いてきたかと。只、参るだけじゃなかった、拝むだけじゃなかったという事なんです。そういう信心が、何十年続いておってもです。それであっては、いよいよの時に、まさかの時に、ひとっつも役に立ちません。けれども、本当の信心が分かりたい。
求めて求めてやまない信心がそこになされておる。わが心が愈々神に向うておった信心であったからこそそれが出来たんだと思う。只毎日参りよりますもう何十年信心しよりますと言うて、改まる事にも磨く事にも精進しなくってです。そういう信が生まれてくるはずは絶対にありません。どんなに神愛の中だと言うても、カンテラの中にいかに油が一杯あってもです。芯なければ火がともらず、と仰せられますようにです。それでは家の中に一人の信心があって、家の中が明るうなると言う様な事にはなりません。
うちの親父が、信心なしよるばってんちいうぐらいな事になってくるです。改まりに改まって行く、さらなところを見せる為じゃないでも、それを見せていけばです。とてもとても、ついて来にゃおられないです、金光様の御信心は。そのようにして一家の中に、光が灯り、一家をあげての信心が、例えばその周辺、社会を潤す程しのおかげになっていって、それが沢山集まったら、その地方を明るくする、いわゆる社会を明るくする働き。世界を、いよいよ信心の光で潤す程しの信心を願わせて頂いておる。
それが今合楽で言われておる、和賀心時代を創るという事でございます。ですからただ和賀心時代を創る、和賀心時代を創る、その運動員にでもならせて頂こうと思いましてもです。わが心が神に向う。本当な意味に於て。いわゆる求道、ただ信心が分かったという人の所でですね。その時点を調べてみると、ほとんどが、過去の宗教家、信心を手厚うしておって、詳しい方達の話を聞くとです。
「落ちるこの身も十八願の 内と思えば危なげはなし」というところ迄しか悟れてない。「吉野山 踏み迷うても 花の中」と、いう事が分かっておるだけでも、心が安らぎましょうね。けれども、地獄よりも、迷うておるよりも、やっぱり迷わずに信一筋で生きてゆけれる。地獄じゃない、この世は極楽と感じられるおかげを頂いた方が、お互い、いいですからね。
どうぞ。